「徒然草」の吉田兼好は法師であるが、広く俗世間にも通じている。時々「徒然草」を開いて読むと教えられることが多くある。

 たとえば「高名の木登り」(第百九段)に次のような話がある。木登りの名人と呼ばれる男が人を指図して高い木に登らせて枝を切らせた。非常に危なく見えていたときには何も言わなかったのだが、降りてきて軒ぐらいの高さになったときに「あやまちすな。心して降りよ」と声をかけた。非常に危ないところでは声をかけずに、飛び降りても大丈夫そうなところになって注意したのを不思議に思い「なぜか」と聞いたところ、目が回りそうで枝がしなって危ないときには、自分自身が怖れているので敢えて言わなくても大丈夫だが、「あやまちは、安き所に成りて、必ず仕る事に候ふ(あやまちは、簡単な所になって必ず起こすものです)」と答えた。

 兼好はつづいて、蹴鞠でも、難しいところを蹴り出した後に、簡単だというふうに思えば必ず落としてしまうことがあると書いている。自分自身の注意力が増している状況においてはミスは起こりにくい。簡単だと油断したりホッとしたときに過ちは起こりやすい。このようなことは、木登りでも蹴鞠でも他のことでも変わらないと兼好は書いている。

 私たちの人生のすべてに通じることであるが、仕事でも、生活でも、注意力と緊張感をもってしているときは、過ちを起こすことは少ない。すべてが順調で幸せなときに問題や危険が起こってくる。教会生活、信仰生活も、厳しい問題や苦悩の只中にいるときは、信仰をしっかりと歩んでいる人が、苦しみを乗り越えて、平安な安らぎのときを与えられると信仰生活も教会生活もだらしなく、いいかげんになる人がいる。

 毎週、日曜日、何の問題もなく教会生活を続けられる人は幸せだ。しかし、信仰の緊張感を失うと大きな過ちをしてしまう場合がある。主イエスは「いつも目をさましていなさい」「気をつけなさい」と何度も語っている。信仰生活の平和なとき、何も問題を感じていないときこそ、あなたの真実な信仰の生き方を問われていることを忘れてはいけない。

松戸教会 牧師 石井錦一

バックナンバー
2002年9月 地獄は一定 まことの信仰を求めて
2002年8月 もともと地上には道はない
2002年7月 気合いを入れて祈る
2002年6月 「逃げる」「傍観」「立ち向かう」
2002年5月 時の徴を見分ける信仰
2002年4月 時刻と時間
2002年3月 自分の花を咲かせて生きる
2002年2月 信仰者として生きる意味
2002年1月 食事することは生きること

2001年12月 クリスマスを迎える心
2001年11月 違う人間同士が共に生きるために
2001年10月 一輪の花に見る永遠
2001年 9月 人間の生き方の原点
2001年 8月 沈黙を聞くこころ
2001年 7月 憤りのない信仰でよいか
2001年 6月
2001年 5月 人間は苦しむために生まれてきたのではない
2001年 4月 悲劇と喜劇
2001年 3月 まどろむことのない神とともに
2001年 2月 誰にうち明けて語れるか
2001年 1月 生きていると生きていく

2000年12月 人間を取り戻すクリスマス
2000年11月 自分はどういう人間か
2000年10月 どこの場所で生きるか
2000年 9月 生きることは神のおくりもの
2000年 8月 不満いい不信がおそろしい
2000年 7月 偶然を神の導きと恵みにかえる


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