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「自分史」という言葉を始めて使ったのは歴史学者の色川大吉である。「人は誰しも歴史をもっている。どんな町の片隅の陋巷(ろうこう)に住む『庶民』といわれる者でも、その人なりの歴史をもっている。それはささやかなものであるかもしれない。誰にも顧みられず、ただ時の流れに消え去るものであるかもしれない。しかし、その人なりの歴史、個人史は、当人にとってかけがえのない生きた証であり、無限の想い出を秘めた喜怒哀楽の足跡なのである」と。要するに、大きな時代に生きた「小さな自分」を書くことである。
愛知県の春日井市に「日本自分史センター」という施設があり、全国初の行政による「自分史」の拠点である。全国から寄贈された自分史が、現在3100冊余あるという。これを読んできた人の報告によると、成功談は妬まれるし、失敗談も、苦労話も、自分の不幸を売りものにしていることになってしまう。 私も「自分史」を書くつもりはないが、牧師として語っているとき、自分のことを語るときが、一番危険を感じる。不幸や苦労を語っても、まして、こんなよいこと、りっぱなことをしたといっても、どこかで自分のきれいごとを語っていることになってしまう。 日本自分史センターにあった本で、最も不思議だったのは、『城門』(全七巻)という作品だという。全国に残る城の門を撮影し、それぞれに注釈を加えた本。そこには一切「私」が書かれていない。「不幸」も「苦労」もなく、ただ城門の歴史が書いてあるだけだった。「私」の消えた「自分史」として寄贈されていたという。 松戸教会は、創立1903年(明治36年)10月1日だから、ちょうど百年になる。戦前の歴史は、ほとんど記録として残されていない。私は42年間牧師として在任しているから、戦後の58年間は、大体わかる。教会を支えた人人と、教会に関わった人々の名前をあげることはできる。しかし、私を含めて、だれがどうした、こうしたという「教会史」を書きたくない。教会の主であるイエス・キリストが、私たちの教会をどのように導き、支えていただいたか、ただそれだけを記録し、書く百年史をどのように書くべきかと祈っている。 |
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松戸教会 牧師 石井錦一
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