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徳富蘆花の短編集「みみずのたわごと」の中に世田谷のボロ市のにぎわいを書いたところがある。「塵箱を此処へ打ち明けた様なあらゆる襤褸やガラクタをずらりと並べて」老若男女がその道を「咽を稗が通る様に」ひしめいて進む。「新しい筵、筍堀器、天秤棒を買って帰る者、草履の材料やつぎ切れにするボロを買う者、古靴を値切る者、古帽子、古洋燈、講談物の古本を冷やかす者、稲荷鮨を頬張る者」と当時の人々の品物と庶民を様々に描き、蘆花はおわりに次のように書いている。「世田谷のボロ市を観て悟らねばならぬ、世に無用なものは無い」と。
確かに、世の中に無用なものは何もないはずだ。現在もリサイクルショップを上手に活用している人はいる。しかし、世の中次々と新しい品物がでてくる。今日買ったものが、明日は不要になってしまう時代でもある。ゴミ集積所の前を通るとまだ使えそうなガラクタが山と積んであったりする。 今の時代は、品物だけでなく、人間まで使い捨てられる。仕事や研究、管理能力など、どうにも使えない人間は、生き方を変える必要があるのかもしれない。どのような障害をもっていても、また痴呆高齢者も、ひとりの人間として、その人格と生きる権利を守ることによって「無用な人間」ということはできない。社会や職場、家庭、地域の中では、時に、無用な存在として捨てられることがあっても、教会は、いつ、どんなときでも、世の中で無用な存在であっても、神の前には、無用な人間はいない。 「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者にするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」(Jコリント1:27-28)私は若い時には、自分の能力や力のないことに、本当に何日もいや何年も苦しんだ。今、高齢者といわれるようになってくると、体力だけでなく、もう少し何かができると思っても、若いときのように働けない。「もういい?」「早くやめたら?」という声が、自分の心にも、外からも聞こえてくる。神は、ガラクタ人間でもいつまで無用なものを有用にしていてくださるのか、答えを祈って待っている。 |
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松戸教会 牧師 石井錦一
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