「紫式部日記」の終り近くに、左衛門内侍という女官が、私に敵意を抱いているのか、不愉快な陰口をいろいろ叩いていることを次のように書いている。

 「源氏物語」を女房に読ませて、それを聞いていた一条天皇が「この人は日本記をこそよみたるべけれ。まことに才あるべし」と大そう誉めた。それを左衛門内侍が聞き悪推量して、学問を鼻にかけている女と殿上人などに言いふらして、この私に「日本記の御局とぞつけりける。いとをかしく侍る」。

 現代的な言い方をすれば、そんなあだ名をつけたそうな、笑ってしまうよ、というところだろう。「才がある」という批評を喜んでよいと思うが、この才は漢才のことで、当時の女性としては、漢字や漢文学の素養は不必要な教養であった。紫式部が嫌がったのは、漢文で書かれた「日本書紀」を読んで物語の中でひけらかしている、なんと嫌な女と左衛門内侍にいわれていることであった。

 「日本記の御局」のあだ名も、皮肉そのもので、いやぁ、大変な学者だそうで、才女だそうでと言いたて、陰で「嫌な女、こわい女」とみんな言っていたに違いないと紫式部が愚痴っている。「紫式部日記」を読んで、いつの時代も人間心は変わらないと思った。

 イエス・キリストを十字架につけろと叫んだ祭司長たち、長老たち、さらに群衆の声は、総督ピラトには「ねたみのためだと分かっていたから」(マタイ27:18)だ。とある。

 人間のねたみ、陰口、悪口がひとりの人間を残酷な死に追いやることはしばしばある。心痛むことだが、このような事件が、大人の社会だけでなく、十代の少年少女にまでおきている。人間の「ねたみ」の極限に主イエス・キリストの十字架の苦難がある。聖書の福音書の十字架の場面を読んでいくと、人間の「ねたみ」「陰口」「悪口」がこれでもか、これでもかと書かれている。「パッション」という映画は、眼の前で主イエスが十字架にいたる苦しみをみせてくれる。キリスト教の歴史もそうだが、私たちのわずか数十年の生涯も、いつもこの「ねたみ」に苦しまされる。しかし、「ねたみ」による十字架で死なれたお方が、復活の主として私たちに生きる力を与えてくださる。このことをしっかりと心にとめて生きていく信仰者でありたいと祈っている。

松戸教会 牧師 石井錦一

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2004年05月 コペルニスク的転回
2004年04月 無用な人間はいない
2004年03月 後で、分かる−人間らしさはどこにいったのか−
2004年02月 千の風になって
2004年01月 あなたの人生は2万9220円

2003年12月 サヨナラだけが人生か?
2003年11月 時雨の主との出会い出会い
2003年10月 私の消えた自分史
2003年09月 主のみこころであれば
2003年08月 一夜秘伝
2003年07月 木の凄さ、信仰の凄さ
2003年06月 躓きは安全なときに起きる
2003年05月 必死のまなざし
2003年04月 桜の季節に信仰を見る
2003年03月 教会は訓練と礼儀を与える
2003年02月 苦しみに耐えかねている人へ
2003年01月 祈りの道をつくりたい

2002年12月 主の誕生と教会改修の祈りの中から
2002年11月 『バベルの塔』の崩壊の中で伝道する教会になろう
2002年10月 逆境の時より順境の時に注意せよ
2002年 9月 地獄は一定 まことの信仰を求めて
2002年 8月 もともと地上には道はない
2002年 7月 気合いを入れて祈る
2002年 6月 「逃げる」「傍観」「立ち向かう」
2002年 5月 時の徴を見分ける信仰
2002年 4月 時刻と時間
2002年 3月 自分の花を咲かせて生きる
2002年 2月 信仰者として生きる意味
2002年 1月 食事することは生きること

2001年12月 クリスマスを迎える心
2001年11月 違う人間同士が共に生きるために
2001年10月 一輪の花に見る永遠
2001年 9月 人間の生き方の原点
2001年 8月 沈黙を聞くこころ
2001年 7月 憤りのない信仰でよいか
2001年 6月
2001年 5月 人間は苦しむために生まれてきたのではない
2001年 4月 悲劇と喜劇
2001年 3月 まどろむことのない神とともに
2001年 2月 誰にうち明けて語れるか
2001年 1月 生きていると生きていく

2000年12月 人間を取り戻すクリスマス
2000年11月 自分はどういう人間か
2000年10月 どこの場所で生きるか
2000年 9月 生きることは神のおくりもの
2000年 8月 不満いい不信がおそろしい
2000年 7月 偶然を神の導きと恵みにかえる


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