人類を救うために「他のどの民よりも貧弱であったから選ばれた神の民(申命記7・7)」の歴史は、緊張にみちた対立と対決、抗争の歴史であり、列強の国や民族による侵略、抑圧と搾取、異なる文化や宗教の押し付けに対する対決と抵抗であった。しかも、この民の最大の「罪」は貧弱な自分たちを侵略してくる強大な相手に妥協し、和解してしまおうと試みることであった。(エレミヤ6・13−14 エゼキエル13・10−11)対立と緊張に耐えられず、民が妥協と和解に逃げていくことに対して、預言者たちは、厳しく警告している。旧約の預言者と違って「イエスは和解と平和を最優先にされる方だ」と思っている人は多い。ルカ14・31−32の「和平交渉をする王の話」は、並べて語られた「ぶどう園の見張り塔を建てる話(ルカ14・28−30)とセットになっていて、「イエスの弟子として歩み続けるにはよほどの覚悟がいる」というたとえ話である。もしこれが、「緊張と対立を避けるために妥協しなさい」という意味であったとしたら、自分が殺されることも知りつつ、ファリサイ派や律法学者たちと対決し続けたイエスの行動は、自分が言ったことと矛盾する。
「平和を実現する人々は幸いである」と説教された(マタイ5−7章)の最初の部分は、これは病気や生活苦を抱える貧しい民衆(マタイ4・25−5・1)に向かって語られた励ましの言葉であったことを忘れてはいけない。痛みを知るあなたたちだからこそ、待ち望む世界がほんとうの平和の世界であり、神が望む平和なのだ。それを実現するための行動をしなさいという。この平和、和解は、3月号の「自分は何ひとつ傷つかない」中立良識ある平和とはまったく違う。
「わたしの平和を与える」(ヨハネ14・27)の意味は、「わたしは平和をあなたたちに差し向ける。わたしの平和をあなたたちに与える。わたしはこれを世が与えるように与えるのではない」と訳せる言葉だ。イエス「平和」差し向けるといい、念を押すように「わたしの平和」を与えると言い、それは「世が与えるものではない」と言われた。十字架に引きずり出されて、あらゆる侮辱と傷つき、痛めつけられた十字架の主が与える平和は、口先の平和と和解とは違う。自分なりの平和で理解しようと、イエスは、きびしくわたしたちの心に釘さしているのだ。