河合隼雄著「ユング心理学と仏教」という本がある。その中に自分の生き方を教えられた物語がある。要約すると次のような話だ。
二人の禅僧が川を歩いて渡ろうとしているところに、美しい女性が来て川に入るのをためらっている。一人の僧がすぐに、彼女を抱いて川を渡り切ると、女性を下ろし禅僧は別れた。 二人の僧は、しばらく黙々と歩いていたが、女性を助けなかった僧が口を開いた。「お前は僧としてあの若い女性を抱いてよかったのかと、俺は考え続けてきた。あの女性が助けを必要としていたのは明らかにしてもだ。」すると、もう一人の僧が答えた。「確かに俺はあの女性抱いて川を渡った。しかし、お前はまだあの女を抱いているのか」と。河合隼雄は続いて次のようにいう。
「女性に触れてはならぬという戒を守ることに心を使った僧は、女性に対する個人的なエロティックな感情につかまってしまっています。 実に自由だったもう一人の僧は、私に風のイメージを思い起こさせます。」
風のイメージはとてもよい表現だと思った。形にこだわらず相手の形に応じて変幻自在、どのようにでも自らの形を変え、相手にさらりと触れるけれど、飄々と去っていく。遠藤周作と深い信仰の交わりをもった井上洋次神父は、「風」という季刊誌を発行している。はじめからの読者の一人だが、彼は「風」に、「聖霊、霊」という意味も含めている。
バッハはこのように弾かねばらぬ。こういう職業の人はこうあらねばならぬ。社会規範は、絶対に守らねばならない。自分の生き方はこうあらねばならぬ。世の中はこうなっているのだから、従わなければならぬ・・・そんな「ねばらぬ」へのこだわりに、人はどれほど悩み苦しんでいることか、私自身も、この「こだわり」に苦しんできた。神を信じること、教会生活の規範も、原則は、絶対くずすことをしない、くずれない信仰をもったら、風のように自由に生きる信仰を教えられた。「こだわる」ものがいつも間違っている人間がいる。絶対的に「こだわる」ものと、すべてに、自由であることに、自己確立しないと、信仰生活も、教会生活も、不自由になってしまう。「こだわり」をまちがえると、窮屈なガチガチな心になってしまう。イエスの生涯は、ユダヤ教の「こだわり」からの解放と十字架と復活に生きる、豊かな自由な信仰を与えてくれたのだ。