作家で、精神科医である、なだ いなだが次のようなエッセイを書いている。
秦(しん)は16年、隋は28年、安土桃山時代30年、ぼくは78歳、明治維新に生まれた人は、敗戦の年には78歳、ものの見方が大まかになっても当然だ。これが最近、記憶がアイマイになったときの、ぼくのいいわけである。
講演を頼まれたとき、前置きに使う。ちょっとの不正確さがあったとて、許してくれる。そう最初に断っておく。このいいわけを見つけたおかげで、気が楽になり、なんでも許せるようになった。この前置きを好んで使っているうちに気がついた。78歳、これをモノサシにして計れば、秦の16年は、5分の1にも足りない。隋も安土桃山時代も、ぼくの人生の半分にも足りない。265年間の徳川時代は、たかだか3倍とちょっと、ということになる・・・。若い時は、大正生まれの人たちが大先輩に見えていたが、今は、同時代の仲間に見える。首相だって大統領だって、話の中では敬称抜き、呼び捨てだ。イエスも、ムハンマドも、ワシントンもチャーチルも、史的人物はみな呼び捨てだから、それと同等に遇しているのだから文句はあるまいという気持ちだ。無礼ではないかととがめられたら、そう答える。精神科医として現役であったころ、ときどき出会って、なぜだろうと思っていた老人性の誇大妄想は、こんな気分の上に築かれていたのかと、今になって分かってきた。気がついたのが、ちょっと遅かった。
長い引用になったが、同時代を生きてきた私にとっても、共感することが多かった。ただ、説教したり、お話をしていて「イエス」と呼び捨てすることは、どうしてもできない。若いときは、説教で、張り切って「イエスは」といっていたような気がするが、私の人生にとって、どうしても、「イエス」と呼び捨てに出来ないお方だ。イエスさまの生涯は、30数年、私の半分も生きていない。そのお方、私のすべての救い主として、十字架の死、復活によって、世界の歴史とひとりの人間としての私を含めた多くの人の人生を変え、生きる力を考えてくださったお方である。歴史の中に生きたひとりとして「イエス」とだれが呼んでもかまわない。この主イエスを信じて、洗礼(バプテスマ)をうけて信仰者として生きるものは、だれでも、救い主イエス・キリストとして、信じて生きたい。老人性誇大妄想になっても、「イエスさま」と呼びつづけていきたい。